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夢を現実にする力

「エーアイ・イラスト・コンプ」編

【はじめてを始める#003】

今回取材した「エーアイ・イラスト・コンプ社 代表 石井氏」は、2011年7月21日発売号を最後に休刊した雑誌「ぴあ」の表紙の制作に携わってきた人物である。この雑誌は1972年に創刊されて以来、映画情報・コンサート情報をまとめた雑誌として人気を得て、かつての発行部数は数十万を超えていた。


現在、石井氏は東京・町田を拠点にして活動し、主な営業内容は次の通りだ。
1)人物画を中心にした出版物の構成・イラスト制作
企業の広報・宣伝物の制作

特に人物画では、写真利用して克明に描写するリアルさと、独自のデフォルメによって、独特な面白さを感じられる作風が人気である。
最近では、写真の合成、絵本挿絵、CDジャケット、ラベル、C.Iデザイン等と多岐に渡り、また数枚のイラストをアニメーションさせることや、店頭ポップや宣伝用ディスプレイといった用途への提案も行う。
写真提供:ご本人

夢のはじまり

石井氏は幼い頃に芸術畑で活躍していた親戚の影響を受けて育ち、絵画や彫刻に接する機会も多く、将来は絵描きになると美大への進学を考えていたが、進路を考える年頃になって、当時、出世の王道とされていた理工系の大学へ進学を決意する。絵の道は卒業してからでも遅くないと、まずは堅実にして順調な大学生活のスタートを切った。

ところが入学後、まもなくしてバイク事故に遭ってしまう。手が動かなくなるほどの重大な怪我だった。この時、卒業まで尾を引くとは思いもしなかったが、それは現実となり、絵が描けなくなった。人生、はじめての岐路に立たされたのである。

日常に夢を繋ぐ力

石井氏は悩んだ末、知り合いの伝手もあって、赤坂にあるテレビ番組の制作会社に入社した。芸術に少しでも関わり続けたい気持ちが叶って、担当は音楽番組だった。それからは夢中になって仕事に打ち込んだ。やがて数年経つと不思議なことに怪我をした手が動くようになっていた。
そこで番組制作の中で知り合った駒沢大学の軽音楽部の学生にボランティアでポスターを描いてあげたりしてみると、これがとても評判で学生から喜ばれ、描いてほしいとわざわざやってくる学生が出てくるほどだった。石井氏のあきらめていた夢に再び火が灯る。

そして転機が訪れる。

たまたま仕事帰りに目に付いた風変りな喫茶店。何かピンとくるアート性を感じ、石井氏は思い切って入ってみた。その感は当たり、すぐに居心地の良い場所になったのだが、ある時、マスターに例のポスターを見せた。するとマスターは、店の常連だったある男にそのポスター紹介したのである。この男が、当時、世界的に著名のイラストレーター横井忠則氏と共同スタジオをつくって世間を沸かせていた画家の「及川正通氏」であった。

夢でキーマンと繋がる力

石井氏は、及川氏に積極的に話しかけては気にかけてもらう努力をする。いつからか及川氏と一晩中話し込む関係までになっていた。そしてついに及川氏から「うちで一緒にやらないか?」の一言が飛び出した。
これに待っていたと言わんばかりの石井氏は、この時、所長にまでなっていた番組制作会社の仕事をすぐに辞めて、及川氏の事務所へ転がり込んだ。
人生の岐路に立ち、悩んだ時から6年が過ぎていた。

石井氏の夢が大きく前進した瞬間である。

独立

入所後すぐに及川氏のアシスタントとしてデッサンや重要なペン入れを任される。その合間には自身の作風や技術を磨くことに努めた。また及川氏の贋作を作って周囲を驚かせたりもした。こうして着実にアシスタントとしてのキャリアを積むが、石井氏には次の目標が生まれていた。

「もっと、自分のイラストについて研究したい」

こんな気持があふれ出してきた5年ほどが経った1990年頃に、石井氏は動く。

「先生、独立させてください」

芸術や作家を志す人間は、いつかは独立するもの、そういった暗黙の了解があった。
しかし、及川氏は首を縦には振らない。慰留どころかに怒鳴られた。石井氏はその態度にあわてたが、自分の気持ちは変わらないことを確認した。早かったのか、いや一方的だったのか、タイミングが悪かったのかと理由を探した。
そういえば最近、先生と心を割って話すことも少なくなっていた。石井氏はそう思うとまた及川氏と一晩中話し込むようになって、最後は、独立後も及川氏を手伝うことを条件に、ようやく認めてもらえたのである。

念願の独立だ。

独立後を回想する石井氏は、あまり特別な思い出が少ないと話す。前述の条件通り、ほとんどの仕事が及川氏からのもので、生活に変化がなかったらしい。

夢に挑む

さらに3年ほど経った1993年あたりから石井氏は新しい計画を実行に移した。
当時、イラスト制作は、コンピュータで行う時代へと移り変わるところで、石井氏は、これに敏感に反応し、当時100万円はするマッキントッシュを数十万円の中古で手に入れる。そして、専門書を購入してデジタル化の作画技術を身につけていったのである。

そこからまた3年が経った1996年夏頃、今度は、及川氏から石井氏に声がかかる。

「イラスト制作をデジタル化するから、うちで一緒にやらないか?」
『ぴあ』の表紙のコンピューター化の話があるらしいのだ。

さらに、石井氏には中古ではない最高級のマッキントッシュ、ドイツ製の200万円は下らないスキャナ等が与えられるという。

「高性能のマッキントッシュなら私の研究も捗る」

こうして石井氏は、独立の看板をいったん下げて、再び及川氏のスタジオで働くことになった。
独立してから6年後の出戻りである。

当時、イラストをスキャナでデジタルデータ化することは、手書きの風合いや色などの表現が変化してしまい、違和感を持つ作家が少なくなかった。
例えば、イラスト原画は紙であるため、スキャナで取り込むと紙の凸凹までも取り込み、それが色に影を落とすことでくすんでしまう。
また作画は、ロッドリングという細い針先からインクが出るペンで線を描き、色はエアブラシで付けるというものだったが、これをコンピュータで描くといったら、それは大変で、アプリケーションソフトに専用ツールが十分ない上、描画処理も遅く、すべてが力技で描いていたのである。まさに時間と工夫が勝負の世界だった。

こうして、2000年春頃には、試行錯誤を経て、完全デジタル化の表紙入稿になった。

夢を現実にする

時は流れ、2011年に雑誌「ぴあ」の休刊。今度こそ本当に、及川氏と石井氏がお互いの別れを確信する。
だが離れていても掛け替えのない人間関係であることには変わりがない。状況に敏感な人たちの人間関係はとても機能的に働くようである。

現在、石井氏は、東京・町田市で、人気イラストレーターとして事務所を構えて、活躍されている。
※石井氏への作画制作のご依頼等に関しては、下記メールアドレス宛に「石井アキラ作画」で、ご連絡ください。


以上、第三回は「エーアイ・イラスト・コンプ」の代表 石井氏にお話を伺った。


(了)

文責:ヨシダプロモート
2014年12月17日取材

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東京都町田市地域編集長 Hiro